皆さんはピトケアン島をご存知でしょうか?
世界で最も人口の少ないこの島は太平洋の真ん中にあり、どの大陸からも約5000キロ以上離れています。

2020年の時点で、ピトケアン島の住人は約50人。そのほとんどが1789年のバウンディ反乱を起こした子孫たちです。
険しい岸壁に囲まれているため、クルーズ客船は接岸できず、大人数が一気に下船できる施設も整っていないため、クルーズ客船で行くことは ”ほぼ” 出来ず、多くはピトケアン島を通り過ぎるのみです。
ただ、このピトケアン島がクルーズ客船の航路に含まれている場合があります。
下船できないのになぜ航路に含まれているのでしょうか?
これについては後半にお話して、まずはピトケアン島の歴史とや先ほどのバウンディ反乱からお話しましょう!
目次
ピトケアン島の歴史
ピトケアン島は1767年に7月に、15歳のイギリスの乗組員、ロバートピトケアンにちなんで名づけられました。
発見した際の緯度は正確だったが、経度が不正確だったため、この後ピトケアンを見付けるのを困難にしました。
発見した際は無人島でしたが、岩の壁に描かれた絵などから、ポロネシア人が最初の入植者であったと推測されています。
ピトケアン島に及び人が住むようになったのは、1790年、バウンティ号の9人の反逆者と、一緒にいたタヒチの男性と女性(6人の男性、11人の女性、女の子の赤ちゃん)でした。
イギリス海軍の船HMSバウンティ号の反乱は、1789年4月28日に南太平洋で発生しました。
バウンディ号の反乱
バウンティ号は1787年に、タヒチから西インド諸島に奴隷の食糧として、パンノキの植物を集めて輸送するという使命を得てイギリスを離れました。
そしてタヒチでの5か月の乗り継ぎの間に、多くの男性がネイティブのポリネシア人との関係を形成しました。
その後バウンディ号は、パンノキを乗せイギリスに向け出港しますが、3週間後、船員の一人、フレッチャー・クリスチャンが先頭となり、船長のウィリアム・ブライと、忠誠な乗組員18人を漂流させました。 これが、バウンディ号の反乱です。
反乱の理由は諸説あり、ウィリアム・ブライ船長が横柄で、船員はそれが不満だったという説や、ウィリアム・ブライ船長は規律に従順だっただけで、船員への罰は、正当なものであったともされていますが、いずれにせよ、ポロネシアの生活と女性達がが恋しかったが大きな理由でしょう。
バウンディ号に残ったのは反逆者と、彼らの意志に反して拘束された船長の忠誠者も含まれていました。
バウンティの残りの乗組員のほとんどはポロネシアのタヒチに戻りたいと思っていましたが、クリスチャンは、やがてイギリスの海軍艦艇が彼らを探しに来て、タヒチを探し始める可能性が最も高いと知っていたため、乗組員は5月下旬にトゥブアイ島沖に到着します。
原住民は友好的ではなく、家畜が不足していました。バウンティはタヒチに航海し、家畜とポリネシア人を連れてトゥブアイ島に戻り、そこでコミュニティを設立するのを手伝いましたが、ほぼ3か月後、紛争が始まったため、クリスチャンはこの入植地を放棄し、再びタヒチに戻りました。
1789年9月、16人の乗組員がタヒチに留まることに投票し、残りの8人はクリスチャンと共に、外の世界から隠された無人島を探し始めました。
ピトケアン島の存在を聞いたことがあったクリスチャンは、それを探して航海し、1790年1月15日の夜にピトケアン島を発見しました。 バンディ号が停泊した場所は、現在、バウンティベイと呼ばれています。
その後、他の船にバウンディ号を見られた場合、ここに隠れているのが見付かってしまうため、反逆者たちは、1790年1月23日に船を燃やしてしまいます。
そして彼らは幸せに暮らしましたとさ、、、 めでたし、めでたし、、、 というわけにはいかず、、、
船長のその後…
実は帆もなく漂流させた船長たちは、そのまま死ぬと思われてましたが、なんと1790年4月、船長たちは無事にイギリスに到着し、反逆者の存在を報告し、イギリス海岸本部は反逆者を逮捕するためにパンドラ号を派遣しました。
パンドラ号はその後、タヒチにいた反逆者を捕らえ、1792年6月にイギリスに到着し、軍法会議にかけられた反逆者の内4人は無罪、3人は赦免(しゃめん)され、3人は絞首刑にされました。
クリスチャンのグループは1808年まで発見されませんでしたが、発見されたときには反逆者はジョン・アダムス1人のみでした。
ピトケアン島での生活はバトルロワイアルっだった
島に到着したのは、バウンディ号の反逆者8人と、6人のポリネシア人男性、女の子の赤ちゃん1人を含めた12人のポリネシア人女性でした。
この中には反逆者と関係のあった女性もいますが、無理やり連れてこられた人もいました。
到着すると、反逆者たちは、今日アダムスタウンとして知られている場所に、簡単な家を建設し、彼らはそこでパンノキを見つけ、持ってきた種でサツマイモとヤムイモを植えました。
土地はクリスチャンのグループの間でのみ分割され、ポリネシア人は誰も割り当てられず、奴隷として扱われました。
島での最初の年に、ジョン・ウィリアムとジョン・アダムズの配偶者が亡くなり、ティタヒチ、タラロ、オハの女性、トゥーファイティとティナファネアが連れて行かれ、ジョン・ウィリアムとジョン・アダムズに与えられました。
ティタヒチ、タラロ、オハは共謀して反逆者を殺そうとしたが、女性たちは他の男たちに彼らの計画を密告して裏切り、これにより、1790年12月にタラロとオハが亡くなりました。
そんなこんなで、島では殺し合いなどが絶えませんでした。
ポロネシア人男性の下剋上
1793年9月までに、数人の子供が島で生まれました。
残りの4人のポリネシア人男性は1人の女性(マレバ)を共有していました。 ポロネシア人は男性は、反逆者の虐待に十分苦しんでおり、
反逆者を殺そうと試みました。
最初の犠牲者はジョン・ウィリアムズで、次にフレッチャー・クリスチャン、ジョン・ミルズ、アイザック・マーティン、
ウィリアム・ブラウンと、5人の反逆者を殺しました。下剋上ですね。
ちなみに上記には、反乱の首謀者、フレッチャー・クリスチャンの名前も入っていますが、彼は争いに嫌気がさして、崖の上の洞窟で
1人で過ごしたともありますし、実際に彼の過ごした洞窟は”クリスチャン・ケーブ”として存在しているので、降りたときに殺されたのか、
そこは定かではありません。 ちなみに、島に行った際はガイドと一緒に “クリスチャン・ケーブ” 訪れることが出来ますが、かなり急な斜面になっていて危ないので、
行かない可能性の方が高いと思いますが、万が一行くいう方は、気を付けてくださいね。
残った反逆者たちとその後
クリスチャンのグループ内での処刑、ポロネシア人男性による下剋上、ポロネシア人男性による相打ちなどにより、残ったのは4人のクリスチャンのグループの男性(エドワード・ヤング、マシュー・クィンタル、ジョン・アダムズ、ウィリアム・マッコイ)と、10人の女性とその子供たちでした。
それからの4年~5年は、小さないさかいはあったものの、平和でした。
ある日マッコイが、ティ植物の根から “強力な精神” を醸造する方法を発見しました。
それにより、マッコイは精神的にコントロールを失い、自分の手と足を縛り、海に身を投げ溺死しました。
その後、1799年、酔って脅迫的だったマシュー・クィンタルが、エドワード・ヤングによって死刑にされました。
残ったのはジョン・アダムズとエドワードヤング。
エドワード・ヤングは教育を受けており、読み書きができたので、クリスチャンや島の子供たちに、バウンティ号にあった聖書を使用して、読み書きを教えましたが、エドワード・ヤングは1800年12月に喘息で亡くなっていまいます。
島に到着してから10年、島に残った男性はジョン・アダムスのみとなりました。
ヤングの死後、ジョン・アダムズは、ティ植物から蒸留された ”強力な精神” を飲みながら日々を過ごしますが、ある夜、劇的な幻覚を起こした後、アダムスは変容を遂げ、熱心に宗教的になりました。
そしてヤングの死後も、島の子供たちに聖書を使用して読み書きを教えました。
コミュニティのリーダーとして、アダムズは、日曜日の礼拝を主導し、地域社会の幸福を確保するために貢献しました。
ピトケアン島遂に見つかる
アメリカの捕鯨船であるトパーズは、1808年2月6日にピトケアン島に出くわし、コミュニティを発見しました。 メイヒュー・フォルジャー大尉は彼の発見のニュースをイギリスに送り返しましたが、イギリスはナポレオン戦争に夢中に
なっていいたため、島の存在は無視されました。 1814年9月17日、アメリカの戦争マンエセックスを探していた2隻の船、ブリトンとタグスが島とそのコミュニティを再発見しました。 サートーマスステインズ大尉(ブリトン)とピポン大尉(タグス)はどちらも、ジョン・アダムズが培った島に感銘を受け、
彼らはジョン・アダムスを逮捕することは「残酷で非人道的な行為」であることに同意しました。 25年間の孤立は終わり、島のコミュニティのニュースは世界中で大きな注目を集めました。 英国の宣教師協会は、聖書や食器、かみそり、道具、銃などの実用的な必需品を島に送りました。 さらに、ピトケアン島に訪問したほぼすべての船が寛大な贈り物をしました。 家も改良され、衣服と生活はよりヨーロッパ的になりました。 ジョン・アダムスは、1829年、61歳で亡くなり、彼は彼の奥さんの隣に埋められました。 島の集落の中心地は、アダムスタウンと呼ばれています。 さて、話は現代に戻り、、、
ピトケアン島にクルーズ客船で訪れる
冒頭にもお伝えした通り、”基本的” にピトケアン島をクルーズ客船で訪れることはできません。
島が、大人数を受け入れる施設や体制が整っていないためです。
クルーズ客船で訪れたほとんどの場合、ピトケアン島は眺めるだけになりますが、実は一部の人だけ行くことができるのです。
そうですー、船のお偉いさん方、キャプテンや、各部署のマネージャー達です。
なんで偉くないんだ自分!!!
では乗客はピトケアン島を眺めるだけのために行くのでしょうか?
答えは”No”です。
全てのクルーズ客船に当てはまるわけではありませんが、実はクルーズ客船がピトケアン島に立ち寄る際は、船の乗客やクルーがピトケアン島に行くのではなく、ピトケアンのほぼ全員の住人が船に来るのです!
ピトケアン島の住人は、自分たちのボートに、ピトケアン島のマグネット、ポストカード、切手、Tシャツ、手作りのハチミツから、木で作った小さな船やお皿などのお土産をたくさん乗せて船に乗船します。

お昼頃まではピトケアン島の人による講義があり、その後プールデッキでお土産の販売があります。
ここでピトケアン島の切手をとポストカードを購入して、ポストカードを送ることも出来ますが、到着しないときもあるし、到着しても2カ月~半年ほどかかるそうです。
わたしの自分へあてたポストカードは半年後に到着しました。(でも届いた!)
ピトケアン島の現在
ピトケアン島には学校もあり、就学前教育と初等教育を、ニュージーランドのカリキュラムにのっとって教えられています。
教師は1年契約で任命され、 高等教育は通常ニュージーランドの寄宿学校で完了し、その後移住することも出来ます。
教師もイギリスから1年契約で交代で来ます。2019年に訪れたときの生徒の人数は3名でした。
そして、子供はある一定の年齢になるとニュージーランドで勉強も出来るそうで、その後はそのまま移住することが出来ます。
また、病院はないため、何かあった場合はニュージーランドに行かなければなりません。
物資の調達は船が基本ですが、この船は3カ月に1度しか島に来ません。
雨水を利用しているため水道はありませんが、インターネットが通っており、衛星放送のアンテナも設置され、海外の放送を無料で視聴できますし、電話も繋がります。
島で造ったハチミツなどはオンライン販売していますが、船の便が悪いので、配送に2カ月~5カ月くらいかかります。
彼らの平均年収は40~50万円ほどだそうです。
ピトケアン島への観光者は、月に4~5人、すごーく多いときで20人近く。(少ないけど、人口50人の対比としては多いな)
さて、ここまでピトケアン島の話を聞いて、ピトケアン島に行きたいと思いましたか?
ピトケアン島への行き方
一つはクルーズ客船で血眼になって働いて偉くなって、更に自分の船がピトケアン島へ行くこと(珍しい港なのでほとんどの航路に
入っていません)
もっと現実味のある方法は、ピトケアン島に行くための最良かつ最も信頼できる方法は、タヒチ経由でマンガレバに飛ぶことです。 エアタヒチはマンガレバへの唯一の国内線です。 次に、マンガレバ島のリキタ村への空港タクシーフェリーに乗ります。 MVシルバーサポーター(島の専用旅客船)の乗組員がリキタの埠頭で待ち合わせをして、船を出してくれます。 そして32時間後、ピトケアンに到着します。 この船は数週間おきで運航し、観光客は、ローテーションシステムでピトケアンに出入りするため、ピトケアン島での滞在を4日、
11日、18日間から選択出来るそうですが、14日以上の滞在にはビザが必要で、最大半年間滞在できます。 そして、もしピトケアン島が気に入った場合には、島の住人になることもできます。 日本円で200万円くらいあることが条件に入っていますが、島の住人になってしばらくすると、現在のところ無料で土地ももらえます。 さらに小さな子供連れを特に歓迎してるそうです♪ 気になったら、英語ですが移民のページがあるので探してみてくださいね!移民の前に、この島に住みたいか観光でまず訪れることを
おススメしますが、、、